あなたのココロが元気になる言葉を伝えたい。 わたしたちは真摯にアドバイスしコーチングできるよう心掛けています。
健康には自信があったある日突然おとずれた病。この経験を通して介護病棟と回復病棟の今後の対策や現場のスタッフの実情を改めてお伝えしたいと考え掲載させていただきました。本当に必要とする患者に型枠通りの期限を制限するのはいかがなものでしょう・・・。療法士、看護師、サポーターの昼夜の業務内容を患者の家族はどこまでその実態を知っているでしょう・・・。患者は彼らを「自分の世話(身勝手)をするのは当たり前」と使用人扱いする人もいます。彼らの勤務地が長期にわたって長続きしないこと、そこには待遇が常にありました。ご一読いただければと思います。
我が闘病記
突然その時がきました。7月26日(木)の昼前でした。
午前中パソコンのメールをチェックしてキーボードを叩いておりましたら、11時ごろに左手の動きが少し鈍くなりおかしいと感じ始めましたので、昨夜新宿である企業の役員の送別会の疲れからと思っておりました。軽い熱中症かな、少し寝れば治るだろうと自室に戻り横になりました。
一時間程経過したとき、起き上がろうとしましたが体が重く自由がききません。おかしいと感じ抱えて起こしてもらい尿意をもよおしていましたのでなんとかトイレまで連れて行ってもらいました。しかし、立っていることも出来ません。ドンっと音がしたため大丈夫ですかとドアの外で声をかけられたときは思わず大丈夫だと声を荒げました。なんとも言えない不安に包まれそうになったからです。その後、部屋に戻りソファーに腰かけてスイカを食べようとしましたがやはり左側の感覚がおかしいままです。傍らですぐに病院に行きましょうと心配していましたが「人を病人扱いするな」とまた声を荒げてしまいました。熱中症だと言い張ってそのまま、また少し休むことにしました。熱中症ならば経口飲料を買ってきますと出かけてくれたのでいつの間にかうとうととしてしまいました。経口飲料を少し飲んでまたトイレに行きたくなったときには完全に足に力が入りません。
「両手を前に出してください」強い口調で言われその言葉に従って腕を前に出すと左手が下がり始めました。「脳梗塞です、すぐに病院に行きますから救急車を呼びます」その瞬間、“あっやられた”と自覚しました。しかし、人とは愚かなものですね、この期に及んでもタクシーで行くと我を張り電話をさせました。これが少し遅れた原因になったと思います。這って動くこともままならなくなって、やっと救急車を呼んでくれと頼みました。その間、10分くらいあったでしょうか、実際にはもっと長くも短くも感じました。携帯から電話してもらったのでGPSで救急隊員から折り返し電話が入りやりとりをしながらマンションの入り口で救急車を待ってもらっているとタクシーはすでに待機していたので断りを入れ帰ってもらいました。それと同時に管理人さんに助けを依頼して部屋に行ってくださいとお願いしてくれました。管理人さんがすぐに部屋に来てくれたとき、その顔を見て申し訳ないなと思いながらも信頼できる管理人さんでよかったと感謝しました。とても早く救急車が来て屈強な隊員がテキパキと症状を聞いて動きました。その間に管理人さんはエレベーターのストレッチャー用の扉も開けて置いてくれました。ストレッチャーに乗り移る時は小柄の隊員に軽々と抱かれて乗せられエレベーターで下におりました。その数分間の中で都の医療センターに連れて行ってほしいと伝えると一刻を争うから一番近い病院に行きますと厳しくもやさしい声で言われました。エントランスを出るとき管理人さんに手を振って謝意を表したのをよく覚えています。

何分もしないうちに到着したところがFK病院です。
病院に入ってからはストレッチャーに乗せられて検査を受けました。救急の先生(N先生)が時々覗きこんで話しかけてくれたのが印象的でした。初めて受けたMRIの検査は暗い円筒でした。ただMRIに入った時に、瞬間でしたがこれで終わりなのかなと72年間の時の流れが過りましたがその後の事はあまり覚えていません。何時間か経過して病室に移動したとき点滴が4種類ほどついていました。病衣に着せ替えたとき、救急車の中で少しもらしていたようですと看護師が教えてくれました。先生からは脳幹のもっとも危険なところですが手術をすることなく点滴と薬で治療していくとの説明を受けました。死んでしまった脳細胞を他の脳細胞がどこまで補うことができるか、これからですと言われました。
始めに入った部屋はナースステーションに近い二人部屋でした。動けない身体にとても情けない思いがしましたが、人間は全く動けない事を悟ると面白いもので開き直る事が出来るのですね。その環境の中で気持ちを和ませてくれたのは看護師さんやそのサポーターの皆さんでした。特にトイレ等は“オムツ“にせよ、尿瓶にせよ有難く“天使”のような感じでした。世間では介護する人たちのギャラが少ないと言いますが正しくその通りだと思います。世話になりつくづく感じました、介護のロボット化を安易に言いますが人間の心が無いといけませんね。優しく、時には厳しく接っしてくれた看護師さん、サポーターの人たちには感謝しています。

翌日の朝はお腹がすいていました。昨日のお昼から何も食べていませんでしたからやっと食べられた夕食は待ちに待っていました。が、食通と言われていた小生にはあまりにも無味に近い食事だったので残してしまいました。翌日の朝食も残しました。それを許さない環境に自分がいることを教えられたのが早々に始まったリハビリです。急性期の患者はすぐにリハビリを始めることで効果が全く違うそうです。動けばお腹がすきます、食べなければ体力が持ちません。深く反省して食事は全部残さず食べました。飲み込みに多少症状が出ているとのことでご飯はおかゆ、食器は滑り止めのついたものでした。箸とスプーン、お茶のカップは持参でしたから食べやすくデザインされたスプーンなどを買い揃えてもらいました。普段は気にせず使っているものですが、不自由になると少しの工夫で使い勝手が便利です。後日、管理栄養士さんに食事を残すから大丈夫かと皆で心配していたのだと教えてもらいました。患者の我儘な行動は病院側スタッフにあらゆる心配と迷惑をかけていたことを深く反省し謝りました。

発症して翌々日から運動・作業・言語のリハビリが本格的に始まりました。救急車に乗ったときとこのときでは体は余計に不自由になっていました。救急隊員の一刻を争うという言葉の重みが後になって身に沁みました。リハビリ内容は単純な事でしたが思うように動けず情けない思いがしました。年配(かなりの高齢)の患者が多く、小生は(72)若い方でした。

療法士の方は30歳前後の若い人が多く小生の担当療法士さんは“運動”が資格をとって4ヵ月目の小柄で体重は小生の半分くらいしかない23才の可愛い子のKさんでした。“作業”のNさんは1才の女の子を育てているママさんでしっかりした人で最初に指導してくれました。“言語”のWさんは指導者としてぐいぐい引っ張っていく人で、“ろれつ“がまわらない小生を早期に復帰させてくれた恩人で、いまでもその強い指導には感謝しております。そして脳梗塞を発症して即のリハビリがいかに大切かわが身を持ってよく理解できました。
リハビリは大切だからMさんはまだ若いんだし、一所懸命やりなさいと看護師さんから言われましたので毎日麻痺した左手と左足、”ろれつ”がまわらない口に悪戦苦闘していました。運動はまずベッドから車イスに移動することから始まりました。両足で立つことが出来ません。ベッドに背もたれ無しで体を起こしていることもできません。そんな体でこの日は40分の間に3回移動することができました。Kさんは小さな人でしたので小生が転んで迷惑をかける事ができませんのでとても気を遣いつつどうしてこうも体は動かないかと申し訳なく思いました。しかしその事が小生の闘争心を掻き立てたかもしれません。資格を取り担当した患者(小生)が良く成れば彼女の療法士としての人生に自信になるのではと思いました。小さな体で、動きの鈍い小生を叱咤激励しながら支えて奮闘してくれた姿は言葉にできないほど程感謝しています。

作業はベッドで腕の動きを改善するリハビリから始まりました。左腕は肩より上に上がりません。手のひらも指を動かしたり手を広げたりすることもできません。腕を静止することもできません。救急車に乗るまでは動いていた左手が今は感覚があっても動かなくなってしまっている。そんな恐怖のような不安の中、Nさんはゆっくりグーパーをしてくださいと優しくそして決して急かさず何度も何度も繰り返して手の動きを誘導してくれました。今でもその当時の写真をスマホで見ますがリハビリの原点をみているようです。しっかりしている人で経験も豊富のように感じました、地道な仕事でしたので回復が遅く焦る小生に諭すように話してくれる人でした。焦らずやれたのはNさんの貢献が”大“と思っています。

言語を指導してくれたWさんは”ろれつ“がまわらない小生を少しでも良くしようとする情熱を素晴らしく感じる人でした。優しい言い方をする先生でしたが目はしっかり指導者の目をしておりました。その指導は手袋をして口の中に指を入れて強引に動かしなさい(舌の動き)と云う感じで、初めは左に偏っていた舌のどこを刺激するとどういう効果がある、舌を口のまわりにスムーズに動かすためにはどうする、薄い板を使って舌を動かしその板を回転させることが出来るかなど、その強い指導には感銘を覚えました。他には知能検査のようなこともしました。初めは用紙に書いてあるいくつかの数字を順番に線で結んでいく作業や文章を読んで理解できるかというものでしたが時間がかかりました。それでも時間がかかっても出来るということが重要でこれからの伸びしろは沢山あると教えられ、何日か後にはスムーズに出来るようになりました。その何日か後にはパソコンの画面を見て瞬間動作を検査する作業があり、これがノーミスで出来たのですごいですねと褒められました。おだてられるとやる気もおきます。

発症4日目、初めてのお風呂です。群馬県高崎出身の叔母さん(昔看護師さん)に入れてもらいました。元気な思いやりのある温かい人で夕方小生が具合を悪くしていないか見に来てくれました。
右目は真っ直ぐ見ていますが左目が少し流れるように動きます。自分ではちょっと変かなくらいの感覚でしたが相手にはその動きがわかったそうです。症状の一つだったのでしょう、数日してこの症状は治まりました。

5日目には左手を添えて右手の箸を持ち直すことが出来ました。水分を多くとるように言われていたのでオシッコの色も薄くなりましたが大便がずっと出ていないので座薬を入れて約一時間後に少し排便がありました。入院してから数日は尿意の我慢が出来ず看護師さんを呼んで尿瓶でとってもらう前にオムツにしたことが何回かありました。

6日目、今日から歩行訓練です。車いすから平行棒に立ちつかまりながら左足を半歩くらいずつでしたが前に出して一往復しました。力が入らないし安定しない不安でかなり疲れました。左手は指を自由に動かすことも出来ませんでしたが、作業療法で腕の筋から逆指令を送ることで指が反応するようになりました。血糖値が高いため昼はインシュリンを打ち夜は薬、肝機能の数値も高いので薬、そして下剤。

7日目には左手の小指が反応しました。平行棒も一往復するときのターンがスムーズになりました。昨夜の下剤がきいたのか排便も2回、やっとスッキリし血糖値の数値もインシュリン無し。

8日目は歩行器を使い後ろを支えられながら左足を半歩前に出し一往復しました。まだ自分の左足に歩くという感覚がありません。
言語はカッカッカ・・・が言えません。舌の使い方、口の開き方など細かな指導を根気よく続けてくれるお陰で焦ることなく素直に先生の指導を受けられました。
作業は左手で物をつかむ訓練、モノがあるところに左手を伸ばすのもなかなかうまくいきません。
N先生から血液検査をしながら治療を進めていきましょうと説明がありました。顔の感情表現も豊かになってきて血糖値のインシュリンも昼だけになり夜は薬と、数値が段々と安定しつつあるようです。姉に市役所の介護認定申請をしてもらいました。

9日目、平行棒と歩行器の一往復ずつの動きが昨日よりよくなっていることを感じました。左手の小指と親指の動きもよくなってきて少しですが手を大きく広げることも出来るようになってきています。文字を見るのはまだ難しく何行もあると飛ばしたり斜めに見てしまったりしますが文章の理解力は戻ってきています。昼食はうどんでした。食べやすいようにと2〜3cmに切ってありますから箸でとるにしてもスプーンですくうにしても食べづらいです。車いすで前かがみになることが出来たので体の軸がしっかりしてきたようです。背もたれしながらの食事だと食べにくさがありますがこれで食べやすくなりました。歩行運動後は血圧が190台、高血圧ですが今は下げない方がいいそうです。MRI、3回目、心電図は問題ありませんでした。

10日目、左手中指が反応するようになり、運動リハビリでは寝返りがなんとかできました。言語はなかなか上達しません、焦る気持ちを察するようにとにかく熱心に優しく同じことを繰り返し指導してくれますからどれほど救われたでしょう。有難いです。夜中の排尿のコントロールがうまくできないので何回も看護師さんを呼んで尿瓶でとってもらいますが申し訳ない気持ちになり水分を控えようとしてしまいがちでした。実はある看護師サポーターが小生をベッドから車いすに移動させる際に、アナタ重いわね、あぁ、腰が痛いと大きな声で何度も言うのでそれを聞くのが嫌でした。ナースコールボタンを押してその人がくると気が重くなりました。夜間であると余計です。あまりに何回かあったのである看護師さんに伝えるとそれが私たちの仕事だから気にしないで呼んでくださいといつも笑顔で接してくれました、本当に有難かったです。話はそれますがトイレの件で面白いエピソードがあります。昼間の時は車いすで看護師さん達に連れて行ってもらい用を足しまたトイレ内でベルを押して看護師さんに来てもらい病室に戻してもらうのですが、夜は尿瓶を使って用を足します。その際に男性ができる尿瓶の安定する方法を小生は見出しました、その方法は太ももで尿瓶を押さえながら用を足すやり方で1回も失敗した事もなく我ながら気に入っております。尿瓶を操作してくれた夜勤の人達には感謝しております。(医療病院だけでリハビリ病院では尿瓶は使いませんでした)

11日目、2人部屋から4人部屋に部屋を移動しました。点滴も全て終わりました。言語リハビリで文字をさがすスピードが速くなってきました。言葉も聞き取りやすくなってきているそうです。運動はKさんがお休みでKさんの指導係のMさんが担当してくれました。小生より背が高いので多少強引気味?に体を両脇支えられながらリズムをとって歩く感覚を覚えさせてくれました。自分の足で立っていられる時間も長くなってきています。左手で耳にイヤホンをつけることに成功。食事のときに食器を持つことも出来るようになってきました。ベッドから立ち上がることもタイミングで上手くいきます。

12日目、リハビリは休みの日です。便秘が続いたので座薬を使いました。自主トレで両手を揚げパッと手のひらを開く訓練をし、ベッドに腰かけ座る姿勢も安定してきていることを実感しました。しかし気持ちが少し不安定になってきているときでした。今後自分の体がどこまで回復するのか、生活はどうなるのか、夜ベッドに寝て天井を見ながら、どうしてここにいるのだろう・・・。こんな体のままなのか、以前の体に戻りたい、家に帰りたい。情けなくなる不安と恐怖で押しつぶされそうになりこのころが一番精神的に不安定だったと思います。

13日目は台風が接近していました。市役所から連絡があり介護認定員の訪問日が決まりました。N先生から数値がまだまだ高いとのことでしたが、朝昼夜とインシュリンなしで済みました。毎日毎食前に指に指す血糖値の検査は辛くチクっとする痛みは慣れるものではありません。夕食のとき、味付け海苔の袋を左手で持って右手であけることができました。

14日目ソーシャルワーカーからリハビリテーション病院への転院を勧める説明がありました。今日までの経過を判断すると転院してリハビリ強化したほうが機能回復も可能性が高くなるだろうと思いましたのでその手続きを依頼しました。しかし、そのときの会話の中で今後の歩行の可能性を含め先生たちの見解はどんな感じですか、と質問したところその回答は実に不愉快で患者を不安に陥れるものだったと覚えています。立場上、答えられないことはわかりますが、それでも今後のリハビリを続けて回復を促しましょうという回答くらいは出来たと思います。そのときの返答はもうこの先に可能性は無いといわんばかりの表現でした。こちらの置かれている環境で精神的にゆがんだ捉え方をしていたかもしれませんがその不安を軽減しサポートするのが本来の職務のはずです。ですから尚更、なにくそ、歩く姿を見せてやると決意も新たにしました。

15日目の朝、食事の前に採血です。小生は針が刺さりにくいのでやっと手の甲でとりました。作業のリハビリで自立に向けパジャマの着替えをしました。自分で立っていられる時間も少しずつ長くなってきており、言語のパソコンテストの集中力はミス無し、歩行器で歩くリズムもゆとりが出てきています。左足と右足のバランスがとれるようになってきましたがベッドから起き上がるのはまだ少し時間がかかりました。
病室は症状が回復する都度ナースステーションから遠くなりました、その理由はあまり手が掛らない患者が遠くなるらしいですが小生の場合は違ったようでとても「悲惨」でした。隣人の寝言、いびき、歯ぎしり・・・でかなり睡眠不足の毎日でした。この隣人が頻繁に看護師さんを呼ぶベル、それに伴う出入りが多く夜の間に20数回呼んだりしました(内容はトイレ)翌日は看護師さんもそのままでもよい様に“オムツ“を完璧にしたのですが、その患者は何故かその「オムツ」を外して放尿してしまい、深夜その始末に大騒動でした。翌日も同じことがありました。そのうち看護師さんも慣れてすぐには来なくなりましたので隣人は誰かが来るまでオシッコ〜とか、誰か助けてぇなど言い続け諦めません。仕方なく小生はベルを押す役目をして隣人を助けましたが看護師さんの任務には頭が下がりました。

16日目、外が見える部屋に移動しました。迷惑な隣人から解放されてホッとしました。お風呂に入ったあと、運動のリハビリがあったので汗ビッショリになりました。お風呂は交代制ですから時間を選ぶことができません。週に二回、気分転換のお風呂は楽しみでした。運動リハビリで両足を揃えて少し浮かせてからリズムをつけてベッドから立つ訓練で足が揃い始めました。左足も浮かせる高さが出てきました。

17日目、姉が見舞いに来てくれたので久々にいろいろな会話をしました。入院する前の義兄のことなど小生の記憶に障害のなかったことが姉を安心させたようです。便を柔らかくする薬を飲んでいるためいつもお腹がグルグルとなっています。お陰でポトンと音がするくらいの排便がありました。左手の親指、人差し指、中指の指折りが出来るようになりました。新聞も左手でめくることができます。ベッドと車いすの生活が続き腰とお尻が痛く、自主練もあまり動きたくない辛さがあります。やっと血糖値が安定してきてインシュリンを打たなくてよくなりました。

18日目、お風呂に入りました。気持ちが安らぎます。今日から4本足の杖を使った歩行訓練、左足がガクッガクッとなりながらも支えてもらいながら5mを往復することができたのは達成感がありました。言語のリハビリは数字を繋いでいくスピードがかなり速くなり、頭がクリアになってきているとのことでした。食事のとき野菜を食べるときにむせることが多いので、お茶を飲みながら食べて飲み込む習慣をつけなければいけないのですが、どうしても口の中に残っているときにつぎを入れてしまう癖がぬけません。これも症状のひとつだったようです。

19日目、リハビリは休み。初めて洗面所で髭を剃りました。鏡を見ながら剃っていると看護師さんたちが左手も動くようになりましたね。スゴイですね。と声をかけてくれました。そういえば左手で耳にイヤホンをつける動作に時間がかからなくなってきました。車いすから立ち上がって左片足で立つことも出来るようになってきました。ベッドの寝返りは幅が狭いのでまだ難しいしどうしても右手だけで起き上がろうとしてしまいます。左手の不安が消えません。

20日目、作業のNさんがお休みのため、男性が担当してくれました。ウエイトを左手で押し上げる作業は結構キツイです。お腹がグルグルして少し下痢気味です。夕方の血糖値がはじめて100をきりました。

21日目、午前中にMRIと血液検査がありました。介護認定の訪問があり説明を受けました。約一か月後に通知がくるとのことでした。一か月後、どこまで体が回復しているか、今の小生には回復してきている実感があったので以前のような不安はあまりありませんでした。夕方N先生から病状の説明がありました。糖尿病放置と動脈硬化、血管が2か所虫食いになっていました。脳の方はきれいになっています、肝機能の数値もやっと改善し、血糖値の薬は二倍投与していましたがこれからは薬を変えていきますとのこと。先生の言った言葉の中でとても印象的な言葉がありました。「長年美味いものを食べ過ぎた結果だな」と言ってから、医者として患者に出来る事は種々な数値を下げる努力はできるけど“治そうとする頑張りとリハビリをしっかりする事は患者本人だから頑張りなさい”と言われた言葉は小生の心にとても響きました。医者嫌いの小生でしたが今回の病気が治ってからの後はN先生に診てもらおうと決めました。その後もN先生は病室に何回となく来ては様子を診てもらい小生としてはとても力強く、励みにもなりました。助けてもらった命を大事にしますと改めて思いました。ソーシャルワーカーからリハビリ病院から受け入れの連絡があったので、すぐに電話をして面談の日程を決め翌日姉に行ってもらうことになりました。

22日目、姪親子が突然見舞いに来てくれました。姪は看護師をしていて、思ったより元気で会話も出来るので安心したと言っていました。嬉しい反面、いつも元気なおじちゃんでいたかったので今日の自分を情けなく思い涙が出ました。運動のKさんがお休みで交代の療法士さんが1本杖で歩いてみましょうと歩行テストをしてこちらのほうが歩きやすいように感じました。両足歩行もなんとなく感覚が戻って安定してきたように思います。左手でVサインができました。

23日目、靴を履くときに靴ベラを使うことにしました。どうしても左足かかとが上手く履けなかったので前にかがみこむ不安もなくなり履きやすくなりました。看護サポ−ターにトイレに車いすで付き添ってもらった際に「どんどん出来る事しなければ回復しない」と言われ「自立してパジャマとパンツの上げ下げをした方が良い」と指導されました。何日か前からオムツからリハビリパンツになっていたので何の抵抗もなくトライしました。初めのうちは左手が不自由していましたし足も震えるのでハンケツ(半分尻だし)状態の時もありました。しかし動けない人間には単純な事でも、とても新鮮に感じました。そのサポーターさんに会う度にその強い言葉には、何かきっかけを貰ったように感じました。薬落とし事件・・・夕方の薬を飲むとき一つどこかへ落ちてしまい見渡しても見つかりません。看護師さんに報告するものの、何種類もの薬を飲んでいたのでどれを落としたかわかりません。何分かのち、やっと見つかりました。飲もうとしたときまたどこかに落ちてしまいました。今度はすぐに見つかりやっと飲むことができました。・・・焦りました。

24日目、管理栄養士さんがきて、もう食事の飲み込みも大丈夫そうなので夕方から普通の白米にしますとのこと。入院時から病院食はカロリーが少ない物で箸等も無理という判断でしたがご飯もお粥から正常になりました。おかゆはスプーンで食べていたので箸でご飯を食べられることは嬉しかったです。ご飯の茶碗が持てるかも課題でした。左手で持つと震えが何回となくきて落しそうになりましたが失敗せずやり抜きました。数日後、管理栄養士さんから退院に向けての説明がありました。

28日目にリハビリ病院への転院日が決まり、これで一歩前進と気持ちが明るくなりました。嬉しくて看護師さん、サポーターさんや療法士さんに話しました。何となく頑張った成果と自画自賛した事を思い出します。
いつもは車いすを誰かに押してもらい移動していましたが、転院後のことを考え自分で移動する訓練も始めました。

30日目にはお昼ご飯のときWさんが来て、今日から食事を普通食器にしますので食べているところを確認しますと皆さんより少し早く配膳してくれました。うどんをどんぶりで食べました。Mさん、まったく問題ないですね、上手に持てるようになっていますね、すすることも出来る!。すばらしい。と嬉しい言葉をかけてくれました。Wさん、Nさん、Kさん、皆さんのお蔭です。心の中で頭を下げました。
なんだかお尻が痛痒いので看護師さんに見てもらったところかなり赤くなっていたので専門の先生に診てもらいました。カビだったそうです。リハビリパンツでかぶれたようです。一日に一回薬を塗ってもらうことになりました。翌日、リハビリパンツ卒業。下着パンツは履き心地がよくホッとしました。新しいリハビリ用の靴で歩行訓練や片足ジャンプをしました。今まで履いていた柔らかめの靴より歩きやすくなりました。
ところが、例の迷惑隣人がまたもや同室に移動してきたではありませんか。もうすぐ退院なのにまた睡眠不足かと憂鬱になりました。案の定、その日から四六時中、看護師さんが大変でしたし、また同室の他の人達と口論までする始末です。(1人部屋に入る等処置があっていいかもと思います)同じ部屋での共同生活ですから”ある程度の妥協”が当たり前ですが“より以上“の要求は如何なものかと思います。睡眠不足はより深刻になったのは覚えています。その人との因果はFK病院を退院した後も続くのでまたお話する事にしましょう。

32日目、土曜日だったこともありFK病院でのリハビリが全て終了しました。昨日今日と運動のKさんが体調を崩しお休みでした。言語のWさんも今日はお休みの日でした。入院したころにWさんの交代でリハビリを何度かしてくれた言語のKさんがこの日担当で、Mさんは言葉がはっきりしてきたので聞き返さなくてよくなりましたね。文字やスピードのテストも驚くほどの回復ですと言ってくれたことが嬉しかったです。Wさんに心の中で感謝しました。
さて、いよいよ明後日退院です。退院の日が迫ってくると、とても寂しくなった気持ちがありました、一か月の入院はとても長く感じましたが皆さんの激励がとても大きな励みになり過ごせた事で早く立ち直れたと思います。色々な人が”リハビリを頑張ったからね“と激励を兼ねて声を掛けてくれましたが、全て出会いですのでこれからも大事にしたいものです。血糖値の検査の為指先にブスブス針を刺した人もトイレに行く度に車いすを押してくれた人も、優しく声を掛けてくれた人、全てに感謝しております。

次の日、初めて病院内を車いすで探検しました。日曜日だったので外来はなく看護師さんの許可をもらって1階を見て回り7月26日はここでいろいろな検査を受けたことを思い出しながらお世話になりましたと頭を下げ一礼しました。

月曜日、朝退院の支度をしていると運動のKさんがお休みをして申し訳ないと気にして挨拶に来てくれました。この子の人間として療法士としてしっかりした姿勢に将来の姿を感じました。礼節を重んじることは基本であり本筋です。
入院の際には病衣やオムツのレンタル、病室の差額承諾などいろいろな書類がありましたがそれらの手続き等を親切に手際よく行ってくれた担当看護師のYさんに心から感謝をしています。大変な仕事をテキパキとこなし乍ら小生を叱咤激励しいつも明るく接してくれたこと、そろそろ靴を変えた方がいいのではとアドバイスをしてわざわざ他の人が履いている履きやすそうな靴を借りて見せにきてくれたこと、小生がへそを曲げると叱りながら冗談半分で和ませてくれたこと、夜担当のとき、気が弱くなっている小生を察して切々と話してくれたこと、思い出しても涙が出ます。そういえばある日小生があまりに気持ちよさそうに半分お腹を出して寝ていたのでボールペンでつんつんしても全然起きなかったからもう一回今度は強めにツンツンしたけどやっぱり起きなかったと笑い話もありました。この病院のスタッフは徹底した教育なのか各々の自覚で行っているのかわかりませんが頭が下がります。退院(転院)をする際は車いすに乗った小生を多くの看護師さんたちがエレベーターまで送ってくれたことは脳裏に焼き付いております。

さて、FK病院に入院してからの色々なエピソードがありますので差し障り無い限り披露したいと思います。
運動を指導してくれたKさんが休みに洋服を買った話ですがワンピースで気に入ったものがあり試着せずに自分は7号サイズと思い購入しました。家に戻り着たところ全くのブカブカで着られなかったそうです。運動の指導はいつもと違って気合が入らない様子だったのかな?小生思うに7号でも大きいと思いますがそれ以上の事は言えませんでした。そのKさんは経験豊かな同じ療法士さん達に何時も温かく見守られていました。その中でとても可能性がある青年Mさん28才がおりました。永年、若い人たちを指導してきた小生に目の狂いが無ければ「可能性」がある若者です。直接の指導はあまりありませんでしたがいつも声をかけてくれました。将来、時間が経過した姿を見たいものです。Kさんもたくさん経験を重ねて人間味のある療法士さんに成長してほしいと思います。
Nさんは1才に成った子を育てながら仕事をしているのですが何か我々のような齢を重ねてきた人間は、物越しも優しくリハビリもフレキシブルで人気があるように感じています。小生も病院内で自主的に何をしたらよいかと一番相談したように思います、お手玉、テニスボール、新聞紙、ふろ場の水かき、タオル等自宅に戻っても出来る実践リハビリは色々ありました。
Wさんは男性のMさん同様仕事に対してとても意欲を感じておりました。将来違った形でこの業界に寄与していく人間になるのではないかと思います。勿論挫折もあると思いますがそれを乗り越える気概を感じました。向上心を常に持ちトライする人です。
人は財産ですがこの病院にはこの人達に限らずいい素材が沢山います、後は上司の人の引き出しでしょうか。名前は判りませんでしたが若い人たちが真剣に従事している姿を見ますとこの人達が仕事する事により少しでも喜びを感じ得る組織を作るべきだと思います。

小生は病気をしないタイプでしたが小学校当時は毎月扁桃腺を腫らす”青病タン[弱い子どもの意]“でした。戦後の大家族で8人兄弟姉妹の7番目(男4人、女4人)でしたので・・。過保護で育ち、身体が細く(今は別)弱かった事は今でも記憶しています。
小4年の時、盲腸と肺炎を併発して盲腸は“散らして”肺炎を治しました。中学2年生の時、扁桃腺を切除、その後高2の時に盲腸が痛み救急車で運ばれ切除した事が小生の入院歴です。その後56年間は、殆ど病気らしい事は経験ありませんでした。今回の脳梗塞は一気に凄い経験をしました。人間ドックの検査を受けるべきだったと思いますが、小生は悔やんでいません。何故ならもうそれは後の祭りだと思うのです、これからはどうするかは医師の言う事を聞きながら自分の体を大切にすべきです。今は今回助けてもらった沢山の人達と今まで付き合ってもらった人達の為にも健康年齢が続く限り何かを伝えればと思います。

8月28日、介護タクシーに乗ってリハビリ病院に転院しました。受付の近くに大きなリハビリルームがあり、療法士さんたちが汗を流しながら患者さんのリハビリをしていました。入院手続きを済ませると病院側の説明を受けました、担当になった看護師さんは声に特徴がありここからは車いすで入院生活を始めます、移動するときはどんなときでも看護師を呼んでください、ひとりでの行動はしないでくださいとの説明でした。車いすはガムテープで何か所も補強した座り心地の痛いもので後日マイクッションを持ってきました。説明後に病院の担当医(NH先生)と面談を行いました。姉が同席してリハビリの在り方について聞きました。1週間ぐらいの現状把握期間を設けて計画書を作成しリハビリを始めたいとの先生の意見でしたが小生は出来るだけ早く退院したい故そのような計画書を作成して下さいと伝えました。翌週9月4日のカンファレンスで方向を定めていきたい意向でした。その1週間で各療法士に1か月で退院したいから厳しく指導して欲しいとお願いしました。リハビリ専門病院ですから戦前の軍隊と同じで休みが無いシステムでしたので小生には都合の良いシステムでした。リハビリは運動がYDさん、作業はNGさん、言語はYSさんの三人が指導してくれることになりました。
先ず強烈に感じたのは患者の具合を見るために色々な沢山の初歩的な指導を受けた事です。一日も早く治したい小生にとってとても「じれったい」事でした。殆ど同じ内容のリハビリをしてきた小生には「何故」という疑問を感じました。例えばベッドから車いすに移動する際は必ず看護師についてもらわないとダメ、トイレに行くのも廊下を車いすで移動するのも、朝と夜のパジャマの着替えも看護師が一緒でないとダメ、ベッドの上以外何もかも自由に行動させてもらえませんでした。前の病院から申し送りがあったはずなのに。療法士の方達はそれぞれの判断があると思いますが常に目的を持ち患者と共有すべきと思います。小生は暗に示唆するように話しましただ理解できない人もいました。翌々日、夜間担当の療法士さんにパジャマの着替えが安全に出来ることを見てもらい見守り無しの着替えとトイレに車いすで移動することが許可されました。

何故ここまで拘束するのか、どうして回復傾向のリハビリを止めるようなことをするのか疑問よりも苛立ちから、作業を指導するNGさんに何故これをするのか疑問を投げ掛けました。最初は言うことを聞かない小生に困り果てていましたが、真剣な説明と指導に納得しながらリハビリを受けて良い指導を受けました。小柄な体でしたが中々芯が強く根性がある人でした。小生の思うように動かない身体を少しでも動かそうとして頑張って指導してくれました。何をやるにせよ、どうしてやるのか、説明をしてくれ、少しずつ小生の扱いが上手になってきたように感じます。リハビリに関して大変真面目に取り組んでいるので患者とのバランスを如何に取り組むか勉強していくと、とても素晴らしい先生になると思います。“目”が少女のような可愛い目をして指導してくれますからリハビリを受ける患者は一時の安らぎの時間を貰った感じがするのは小生だけはないと思います。患者の進展具合を調べるテストの時、小生が「何故やるの?」と反抗していたことが今では良き想い出です。少し原理主義者から脱皮したように感じました。後から聞いた話ですが、あまりにリハビリ指導に抵抗する小生をどうすればリハビリに励んでくれるか運動のYDさんに相談した折、Mさんは説明をすれば理解してくれるからなぜ必要なのかをひとつひとつ丁寧に行っていくことだとアドバイスしてもらい自分もそこから勉強させてもらったと言っていました。
それとは反対に言語聴覚士のYSさんは指導してくれましたが、何を教えて患者の改善を図るか分からない先生でした。確かに難しい指導でしょうが何も好きで言語のリハビリを受けるようになった訳ではありません。もっと患者のレベルを判断して仕事をした方が良いのではと思いました。小生自身かなり誘導しましたが、言語のリハビリ勉強をしてきたYSさんからは年上人の話は無駄なようでした。その指導姿勢は常に患者とは対面でただ言葉の繰り返しを練習させるだけのものでした。YSさんが休みの時、交代で指導してくれた療法士さんたちは口の動きや顎、唇の動きなど手袋をはめて皮膚に触って指導してくれました。YSさんの指導には一度もありませんでした。きっとYSさんなりに自分が勉強した事に“誇り”があるのでしょうから挫折を感じなければ軌道修正は無理かな、と思いました。言語を指導する人は特に患者との対話を大切にしないといけないと思いますね、押し付けの指導ではいけません。ましてやリハビリ患者に対してアナウンサーのように話せとか小生の声が悪いので聞き取れない(地声はどうしようもないもの)、言葉が聞き取りづらいので仕事の際、交渉する相手が理解できないから交渉事はまとまらないという言葉を無神経に発言するのはよろしくないですね。。患者の治りたいという気持ちを阻害するだけです、表現が悪いですがリハビリ病院は殆ど介護施設リハビリのような患者さんが多いです。認知症の患者さん相手には今のままでも“仕事”として通るかもしれませんがYSさんがこれからこの仕事をやって行こうと思うなら、もっと幅広い人間になって欲しいと思います。何事も経験しながら1人前になるのですから良い「社会勉強」を願うばかりです。小生とは初めの印象の通り歯車が合わなかったようです。小生が一方的に話し続けましたのでその点、少し話が上手になった事は彼女のお蔭かもしれませんね(笑)。

9月4日のカンファレンスはNH先生にどうしても月末には退院させてくださいと再度お願いしました。先生からは2か月半くらいを考えているという話でしたが小生にはその期間の社会ボケが一番不安でした。リハビリを丹念に受ける事により回復する事は分かりますがそれ以上に社会と隔離されたところにいる事が人生の第4コーナーに差し掛かる小生には我慢できませんでした。先生は心配かもしれませんがリハビリで一番効果がある事は「患者の心」がどうあるかだと思います。
少しでも次の世代に何かを伝えたいという気持ちを持つ限り早く娑婆に出たいと訴えました。その我侭を許して退院日が9月29日に決まりました。25日ぐらいありましたが大きな目標が出来明るくなったように感じた自分がいました。そのためにはリハビリも一生懸命やった事を想いだします。
看護師さんも良かったねと云ってくれました。リハビリ病院の看護師さんはとても大変でした。小生は看護師さん達には優等生と自認しています、全く日常生活には迷惑はかけませんでした。一番世話になったのは深夜のトイレでした、車いすでの移動そして確認する仕事は申し訳なく思いまいた。自立しても、万が一の転倒を考えて何時も護衛付きには頭が下がる思いがしました。

運動のYDさんはとても情熱家でした。小生が少しでも早く退院したいとの意向を聞いてくれましたしその状況もしっかり説明してくれました。療法士との話し合いも(定期的に行う会議)他の作業、言語のチーフになって分かり易く説明してもらいました。言語の指導とは全く逆で運動は激しいものでした、その成果が日増しに上がっていくのが小生自身、良く分かりました。ベッドの上で動く事が苦手な体の固い小生に容赦なく動くように指導し歩行訓練も段々厳しくなり、時には杖無しで歩いている自分に驚いた時もありました。とにかく人の動かし方が上手で40歳ぐらい歳の差がある小生も手玉にとられました。色々な病院内の行動もYDさんが看護師さんに伝えてから許可が下りるのですが時々違反(自主リハビリ行動)をして看護師さんに注意された事もありました。リハビリルームには沢山の人達がおりますが何時も汗を流しながらしごき(よい意味で)を受けていました。運動のリハビリ後は必ず肌着を着替えました。この「YDしごき」があったからこそ予定通り退院できたと思います。

病院の食堂は朝が8時、昼が12時で夕飯は18時と決まっていました。前の病院はベッドに配膳してくれましたがリハビリ病院は各階に25名から30名近い患者が使う食堂があり一緒に食事をします。色々な人がいました、毎回同じことを言う人、手数をかける人、食べるのがとても早い人、あまり食べない人、しっかり食べる人(小生はこの部類)。世話を掛ける人は断然男が多く女性の強さを改め感じました。(男はだらしないものですね)ある日突然いなくなる人もいました。

同じ病室で食堂の席が隣になった90才位の人は食べ物の自由が無いので違う施設に行く事に決めましたと話しました。半月くらい同室でしたが戦前は軍医の卵として美保基地(米子空港兼ねる)にいた事や呉の基地に行った事やその後日赤病院で退職した話を聞きました。小生も美保基地が延長した時に少し関係しましたので退院するまで沢山の話をしました。その人が転院する理由は、これからは長く生きられないから好きな物を食べたいという事でした。段々と体力が弱くなる身体を見てそのような結論を出したそうですがその姿には何の気負いもなく、とても清々しいものでした。退院する日に娘さんから挨拶を受けましたがとても爽やかな挨拶でした。今頃は好きな物を食べて元気に過ごしていると思います。
その人が言った印象的な言葉ありますが・・曰く「健康であっても長く病院にいると病気になってしまう」という言葉でした。穏やかな医師だった人がと思うと考えさせられます。リハビリ病院内の一日は自分で日々小さな“目標”を持たないと小生にとってはとても長い時間でした。ですから余計にリハビリの時間が大切なものでした。小さな事でも進歩したという自画自賛的な事も自身のセルフコントロールには大切な要素でした。

その方が退院した後のベッドに入院してきたのが前の病院で同じ部屋で“トイレ放尿事件”で大変だった御仁です。小生の退院20日前でした。その御仁は前より動作が鈍くなっているように感じましたのでその夜は気を付けていたのですが案の定、夜は看護師さんを呼びぱっなしの状態が始まりました。小生は斜め前のベッドでした。
翌朝、隣のベッドの人によりますと20回以上ベルを鳴らしたとの事です。何をやるにせよ看護師さんを呼び出し、リハビリの療法士さんまでも介護士さんの如く使う事はリハビリを介護と間違っているように感じてなりません。介護病院のように振舞うその御仁は本人よりも家族に問題があると思います。このような形では政府が考える“自宅介護”の姿勢は進展しないと思います。本人は治す意思が無いようで、家には戻りたいのですからもっと親族に正しい判断が無いといけませんね。医療病院とリハビリ病院と終末期病院としっかり把握して進むべき道を考えるべきですね。あの御仁(家族)は間違っています。あの御仁だけの問題ではありません、周囲に多くの負の問題を起こしますので政府も大学病院も医療病院もリハビリ病院もそれを取り囲む業界も真剣に考える事が大切です。生きているもの必ず通らなくていけない事だから、難しい問題と思いますが日本的な「あいまい」な判断はいけません。家族の方も老後を看取るという判断を誤ってはいけないと思います、政府の医療対策を充てにしてはいけませんし、リハビリ目的の病院を介護施設にしてはいけないと思います。”御仁”の家族は年寄りだから病院に入院させておけばと気楽でいるかもしれません。たまに見舞いにきて元気になったとか良かったとか大きな声で、時には親子が5〜6人で病室に来て大声で会話し帰っていく。家族が居ないときの入院生活はひどいものです。風呂を嫌がり食事を嫌がり、トイレを嫌がり挙句、看護師さんが病室の窓を開けて排便の始末をする。大人の便ですから臭いが酷くとても病室には居られません。小生も談話ルームに逃げました。医療病院ではリハビリ病院に転院しても今後の回復をあまり期待できないと判断した患者さんには帰宅か施設への入所を促しているそうですが、家族は安易に考えているのが実情かもしれません。小生も何時か“御仁”のような状態に成ると思いますが、その介護の有難さを忘れないようにしなければいけません。

その反面家族が見舞いに来た折り孫が来て声が大きく迷惑をかけるかもと断りを入れる人もおりました。何かホッとした気持ちがした事を想い出します。病院内は様々な人と家族の人間模様があります、中には入院初日から隠れたばこをする患者もいて、トイレにその臭いが残っていたこともありました。夕食後にベッドでバリバリ音をさせて何かを食べていました。看護師さんに伝えても対処はしなかったようです。
療法士の方もこの病院では当番で我々の食堂の世話をしたり、患者の着替えをさせたり、行動を看守るなど大変な仕事をしていました。看護師さんも人数が少ないように思えました。このような事は一時的には我慢できても先行きは尻つぼみの職種に成ってしまうのではと、危機感を感じました。業界はもっと抜本的な対策を講じる必要があると思います。喫緊の課題と思います。新しい技術、新しい設備、新しい人材を導入する為には大きな財力が必要でしょうが病院ごとにランク付けをしてそれぞれの立場の仕組みを考えてやるべき事をやる事と思いますが如何でしようか?スキームを組むためにはそう簡単ではないと思いますが、これからの人が大いなる励みをもって進むのではないかと思います。
素人が考えるほど甘くはないと思いますが目標を作ってやるのが今の現役である我々世代の役目です。
退院する1週間ぐらい前にテスト帰宅がありました。自宅に帰ってトイレ、入浴に問題がないか補助器具が必要なところがあるかを確認して療法士に報告するのですが、事前に浴室で使うシャワーチェアと歩行用の杖を購入していたので帰宅はタクシーを使い乗り降りも全て問題ありませんでした。救急車で運ばれて初めての帰宅ですが何か空中にいるような感じであまり寝付けませんでした。トイレ、浴室共日常の生活に大きな問題はありませんでした。浴槽の淵には滑り止めのゴムを貼りましたのでつかまりも安全です。ベランダからみた風景が変り無く見えた事、陽光がとても眩しかった事を記憶しています。
気が急いて退院したら先ずは何を食べたという話になります。しかし段々とその願望は、はかない夢に過ぎない事に気が付く小生でした。確かに不摂生が溜まり一気に爆発した病気を再び繰り返すわけにはいきません。前の病院でN先生から数値的には正常値に出来ても退院してからの生活が大切と云われ、管理栄養士からも日常のカロリー制限の指示を受けていましたので仕方がありません。

病院のお風呂はジャグジー風呂でとても気分が良かったのも覚えています、サポーターの人達から会う度に「体が回復している」と言われると嬉しくなる自分がいました。風呂場では転倒を一番注意しました。転倒をして皆さんに迷惑をかける訳にはいきませんので小生も大分注意しました。風呂場も小生にとってはリハビリの場です。少しでも自分自身でやるようにしました。退院する前日が最後のお風呂でしたが少々風邪気味でしたので入れなかった事が残念でした。

退院する前の日にソーシャルワーカーのIさん、NGさん、YDさんと総合評価の公表があり書面を貰いましたが的確に評価しており入院当初の評価点をはるかに上回る評価点を出してくれました。皆さんと先生には感謝しますが残念な事は会議に何時もYSさんは欠席でした。意味は分かりませんが。

今回の病気発症は色々な事を教えてくれました。
救急搬送の時世話になった隊員の人、FK病院のN先生、動かない身体をサポートしてくれた看護師さん、リハビリを指導してくれた療法士の皆さんに感謝しております。
リハビリ病院に転院してからはNH先生の心遣い、看護師さん達の献身的な仕事振り、そして療法士さん達の若い情熱はとても良い勉強に成りました。
しかしながら今後どのように医療、リハビリ、介護体制を発展させるべきか、大きな課題があることも実感しました。医療病院は最新設備を導入の為に莫大な投資をしますがリハビリ病院にはまだまだ人財のシステムが確立していないように感じます。若い人たちは勉強して意欲がある人が沢山いるように思えますが果たして将来何処に目標を置いて進んだら良いか疑問になると思います。その為にもスキームの確立を早急に考えるべきとおもいますが・・・。如何でしょうか。

リハビリ病院もたくさんの事を教えてくれました。小生はリハビリ専門の病院ですから患者皆さんが少しでも良くなる目的をもって入院していると想像していましたが半数以上の人はあまり意欲のない人に感じました。勿論リハビリの程度の問題がありますが・・。このような専門病院に入る人にはその内容をしっかり話す事が先ず肝心と思いました。療法士の皆さんは一生懸命やろうと努力していてもその患者の意欲をみてその技術を見せる事無く終わっているような人もいるように感じました。概して男性はリハビリに対しての意欲が悪い様に思いました。勿論患者側だけの問題ではありません。療法士の先生側にも問題があると思いますが・・。例えばこうすれば少しは良くなるのだという目標設定をあまり定めていない事です。小生のように「何故」という人が少ないかもしれませんが「目標の共有」はとても大切な事と思います。運動のYDさんはその点不思議な力をもっていました、他の療法士さん達はどのようにしているか判りませんが、日々の日程をどのような管理・指導していくのか何もメモを見るでも無しにとても段取り良く進む様は何時も楽しく見ていました。しかしリハビリの指導は患者(小生)をコテコテにする激しいものでした。

FK病院、リハビリ病院を経て9月29日に退院しました。皆さんから激励を受け、別れをしましたがこれからが本番と気を引き締めて懐かしい街並みを見ながら2ヵ月と3日ぶりに自宅に戻りました。
退院してから体重は1キログラム増加しました。食事に関しても色々なアドバイスは小生の為にしてもらっている訳ですから小生は堪えなればいけません、出来るだけ無理なくコントロールできたらと楽しく頑張っているところです。(極、自然に出来るようにしなければと思います。)

退院後、外来リハビリは最初にお世話になったFK病院に通院しました。月に一度のN先生の診察もあります。10月半ばに突然気持ちが悪くなり吐き気と冷や汗も出て救急車でFK病院に連れて行ってもらいました。以前の経験があったのでタクシーではなくすぐに119番に電話しました。生憎到着までに20分くらいあったと思います。隊員の人に病状と症状を話し低血糖ではと説明し砂糖を一口なめたことも伝えました。FK病院の救急で診察を受け、消化不良による胃酸が原因だと言われ脳の方は問題ないと薬をもらって帰宅しました。途中で2度吐きましたので家に帰った時にはスッキリしていました。薬を飲んで一休みするともう症状は落ち着いていましたが、その時は瞬間焦りました。脳梗塞は夏と冬に多いといいます。隠れ脱水も要注意とのことです。N先生に報告すると何かあったらいつでも来てくださいと温かく声をかけてくれました。お世話になった看護師さんたちも小生のことを覚えていてくれました。入院していた時は病衣で寝ている姿が多いので殆どわからなくなるそうですが有難いことです。改めてここで助けていただいた命、回復に尽力してくれている皆さんに感謝しこれからの人生、十分に時間を楽しみながら過ごしていこうと思います。

外来リハビリの担当療法士さんは以前お世話になった3人でした。理学療法士Kさんの指導係の男性Mさんも小生を間接的に見守ってくれました。若い人たちが信念と向上心を忘れることなく患者と向き合ってくれることは有難いことです。Wさんは前よりも一層厳しくもありやさしく接してくれました。お父さんがお母さんに感謝の意を伝えるのにはどうしたらいいかと話題が出て少しアドバイスをしました。後日、とても喜んで報告してくれました。Kさんは相変わらず?見守っていてあげたいような子です。小生の外来リハビリが終了するときまたもや休み、今回はインフルエンザです。リハビリスタッフの皆さんも小生にいつも声をかけてくれる顔見知りの関係でしたからKさんの休みは笑い話になりました。Nさんは主にマッサージを念入りにして肩の凝りをほぐしてくれました。

発症して180日が経過したので週に2回通っていた外来リハビリは終了しました。後は自分でリハビリ施設を探して通院することになります。しかし、介護保険で通う施設は今まで病院で受けていたリハビリとは程遠い内容です。療法士も一対一だったものが療法士と大勢一緒にというような環境です。決して満足のいく場所ではありません。リハビリというよりも機能維持といったことろです。患者によってはリハビリを継続することで伸びしろがある人もいます。結局は有名人などが継続するリハビリ施設は限られた環境になります。もっと国の制度も原点を見直す必要があるのではと感じてなりません。入院リハビリ患者は2〜3割は療法士の言葉も指導も理解できない人たちです。それでも一定期間はリハビリを受けて施設等に帰っていきます。その枠を伸びしろのあるリハビリ患者にというと語弊がありますが、患者がリハビリ施設を探さなくても同じ病院で外来リハビリを継続できる制度に戻ってほしいとつくづく感じました。何より重視してほしいことは患者と療法士のコミュニケーションです。回復してきている体を一番理解しています。医療費の問題は確かに深刻な問題です。しかし最近では神経細胞の新生が報告されている時代です。専門家の療法士さんたちがリハビリ継続によって改善される可能性があると判断した患者にはそれこそ健康体で在宅生活を続けられるように継続が認可された方が寝たきりや特別養護老人施設への入居者を削減できるのではないでしょうか。個人負担額も収入や財産などによって個人差があってもよいと思います。例えば月額3万円や5万円支払ってでもリハビリを継続したいと希望する人は多いはずです。大雑把な机上の計算平均ではなく現場(療法士)の声と患者の声を反映させるシステムをぜひお願いしたいですね。

毎月採血をして診察してもらっているN先生の診察は3か月に一度になりました。普段の食生活を摂生した成果が出たとのことで数値が安定し常用する薬も半分になりました。
先生に素晴らしいと言われた言葉は嬉しかったです、その反面、食生活の持続を考えると楽しみもあまり期待できませんので週に1回安息日をつくって程々ですが好きなものを食べることにしています。

理学療法士の先生は小生の体を細かく観察して外来リハビリ終了後の自主メニューを提案してくれました。脳神経の指令と筋肉の連携が当たり前に動く身体を取り戻すのにどういった作業が有効かを説明してくれました。一つの動作で少しずつ変化することを感じながら日々続けています。しかし、先生が心配していた「自主練は皆さんどうしても続かなくなる」という言葉は小生にも当てはまるものでした。ストレッチの姿勢が辛いことから、ついつい気が向いたらやるという方向になってしまいます。病気の障害なのか肩や腕に痛みを感じ動かすのが辛くなってきて温熱低周波治療器で患部が良くなっていると思いどんどんストレッチも種類を減らしてしまいがちです。リハビリの大切さがわかっていても自分では毎日続けることは難しくリハビリ患者の環境改善、指導は重要だと改めて感じています。

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